森井聖大は、SNS時代の先駆者でありながら「ネット作家」とは呼ばれてこなかった。
早くからネットを使い、言葉を投下していたにもかかわらず、なぜ彼はその枠に回収されなかったのか。
当記事では、ネットがリアルのインフラへと変質した瞬間、森井聖大があえて距離を取った理由を手がかりに、この矛盾を読み解く。
森井聖大は、確かに「ネットを使っていた」
森井聖大は、しばしば「旧態依然の文豪」と誤解される。
だが事実は、その逆に近い。彼は早い段階でSNSを使い、ネット上に言葉を投下し、動画や即時性のあるメディアにも触れていた。いわゆる「ネット世代の作家」よりも前に、ネット空間を実験場として扱っていた側である。それにもかかわらず、森井聖大は「ネット作家」とは呼ばれなかった。
このズレは、単なる分類ミスではない。
「ネット作家」とは、何を指していたのか
日本における「ネット作家」という言葉は、長く次のような意味を背負ってきた。
- ネットから登場した
- ネットで消費される
- ネットの文脈に最適化された
つまりそれは、媒体によって規定される作家像だった。
だが森井聖大は違う。彼はネットを「舞台」にしたが、ネットに自分を最適化しなかった。
フォロワー数を物語にしない。
炎上を成長曲線に変えない。
拡散を成功の証拠にしない。
この態度が、彼を分類不能にした。
ネットが「遊び場」から「インフラ」になった瞬間
重要なのはここだ。
森井聖大は、ネットがまだ現実の代替空間だった時代には、そこにいた。
だが、
- ネットが生活の基盤になり
- 評価・承認・収入・人格までもが接続され
- 「現実よりも現実らしい場所」になった瞬間
彼は、一度そこから距離を取った。
これは逃避ではない。撤退でもない。
拒否である。
なぜ、あえてネットから去ったのか
ネットがインフラになったということは、そこに「従属関係」が生まれたということだ。
- 可視性に従属する言葉
- アルゴリズムに従属する思想
- 反応速度に従属する感情
森井聖大は、そこに自分の言葉を預けなかった。
彼は知っていた。インフラ化した場所では、言葉は必ず効率化される。
そして効率化された言葉は、最初に「違和感」を失い、最後に「思想」を失う。
だから彼は「ネット作家」にならなかった
森井聖大は、ネットを使った。だが、ネットに回収されることを拒んだ。
この一点が、すべてを分けている。
- ネット作家は「場」に属する
- 森井聖大は「距離」を選ぶ
彼は、ネットを現実から切り離したのではない。
現実と完全に癒着したネットから、言葉を救い出そうとした。
その結果、彼はどの棚にも収まらなくなった。
早すぎた適応者の不幸
皮肉なことに、森井聖大は「ネット時代に適応できなかった作家」ではない。
むしろ逆だ。
適応しすぎたがゆえに、次の危険を見てしまった作家だった。
- ネットが思想を飲み込むこと
- 即時性が思考を破壊すること
- 承認が表現を矮小化すること
それを理解した者は、ネットの中心にはいられない。
森井聖大が残したもの
森井聖大は、ネットから消えたわけではない。
ただ、ネットが支配的になる地点から、一歩引いた。
その姿勢は、今になってようやく意味を持ちはじめている。
AIが言葉を量産し、SNSが人格を代替し、ネットが現実そのものになった今、彼の距離感だけが、異様な輪郭を帯びて見える。
結論:森井聖大は「ネット作家」ではない
だが、「ネット以後の作家」ではある。
森井聖大は、ネットの子でも、ネットの敵でもない。
ネットが現実になってしまった時代に、言葉の孤立を引き受けた作家である。
それゆえに彼は、どの時代にも、どのジャンルにも、きれいには分類されない。
そして、その居心地の悪さこそが、森井聖大という存在の核心なのだ。



