森井聖大の作品を読み続けていると、「妄想」という言葉が、私たちが日常的に使っている意味とはまったく違う位置に置かれていることに気づく。それは現実からの逸脱ではなく、現実そのものがすでに過剰な意味を帯びていることを示す痕跡として現れる。
一方で、近年注目されるAIの文章生成には、しばしば「ハレーション」と呼ばれる現象が見られる。情報が結びつきすぎ、文脈が滲み、正確さの向こう側で意味が増幅していく感覚。それは欠陥として語られることが多いが、果たして本当にそうだろうか。
本稿では、
- 『上級妄想病院』
- 『超S宣言』
を中心に、森井聖大が一貫して重視してきた「妄想」という思考形式を手がかりに、人間の妄想とAIのハレーションが交差する地点を探る。そこには、現代文学が抱え続けてきた問いと、AI時代における新たな文学の可能性が、静かに重なっている。
『上級妄想病院』が描くもの

『上級妄想病院』における「病院」は、治療の場ではない。
それは、意味を過剰に受信してしまった者を隔離する社会装置として描かれる。
妄想患者とは、狂っている人間ではない。
世界のノイズを引き受けすぎた人間だ。
ここで森井聖大は、価値の向きを反転させる。
- 妄想=誤り
ではなく - 妄想=世界の歪みを最初に感知した痕跡
この転倒によって、「正常」とされている側の現実こそが、実は強固なフィクションであることが露わになる。
『超S宣言』における妄想の引き受け

『超S宣言』の「S」は、俗な意味での刺激性を指さない。
それは中井久夫の言うS親和性を、意識的に引き受けるという態度表明だ。
世界が意味を投げてくるなら、受信を切らない。
合理や常識で薄めない。
壊れる可能性を含んだまま、意味の洪水に立ち続ける。
ここで妄想は、逃避ではない。
覚悟の形式になる。
森井聖大の妄想は、「耐えられない現実から目を逸らすための幻想」ではなく、「耐えられないほど意味に満ちた世界を、そのまま書き取る行為」なのだ。
妄想の価値観転倒とは何か
一般に妄想とは、現実からの逸脱として理解される。誤った認知、過剰な意味づけ、修正されるべき思考。そこには常に「現実が正しく、妄想は間違っている」という序列がある。
しかし、森井聖大の文学はこの序列を静かに反転させる。彼の作品において妄想は、誤りではない。むしろそれは、現実の側がすでに過剰な意味を帯びていることを、最初に感知してしまった思考の痕跡として現れる。
社会は、意味を処理しきれない感受性に対して「妄想」という名を与える。だが森井聖大は、その名付け自体を疑う。妄想とは、世界を信じすぎた結果ではないか。世界が語りかけてくる声を、受信してしまっただけではないか。
ここで価値は転倒する。
妄想は現実からの逸脱ではなく、現実の歪みをそのまま引き受けた思考形式になる。
妄想は「感度」の問題である
森井聖大が描く妄想には、一貫した特徴がある。それは、鈍感さを拒否していることだ。
現代社会では、考えすぎないこと、感じすぎないこと、意味を深追いしないことが一種の知性として扱われる。だがその均衡は、常に危うい。
森井聖大の妄想的思考は、この均衡を意図的に壊す。世界が投げてくる意味を、途中で遮断しない。合理というフィルターで薄めない。
妄想とは、壊れた思考ではない。
壊れていく世界に対して、最後まで感度を下げなかった思考なのだ。
AIのハレーションが示すもの
ここで、AIのハレーションが重要な位置を占めてくる。
AIが生成する文章には、しばしば特徴的な滲みがある。関係性を見出しすぎ、文脈を結びすぎ、結果として意味が過剰に生成される。
この現象は、誤りや欠陥として語られがちだ。しかし構造的に見れば、それは人間の妄想と驚くほど似ている。
- 意味が世界に満ちすぎる
- 偶然が必然のように連なっていく
- 境界が曖昧になり、輪郭が揺らぐ
これは、人工的に再現された妄想的感受と言ってよい。
森井聖大がAIのハレーションに可能性を見出すのは、そこに文学が長く抱えてきた問題が、別の主体によって引き受けられ始めているからだ。
妄想とAIが交わる地点
妄想とは、人間が世界の意味を引き受けすぎた結果であり、AIのハレーションとは、機械が意味を生成しすぎた結果である。
両者は同じ場所で交差する。それは、意味が過剰であるという事実そのものだ。
森井聖大の文学は、妄想を一人の作家の内面に閉じ込めない。AIという外部装置と接続することで、妄想を分散させ、共有可能なものへと変えていく。
ここには、「才能」や「個人」に回収されてきた文学を、もう一度解放しようとする意志が見える。
結論|妄想(ハレーション)こそ文学である
森井聖大論として、最後にこの一文を置いておきたい。
妄想とは誤作動ではない。
世界がすでに過剰な意味に満ちていることを、修正せず、そのまま引き受けた思考の形式である。
森井聖大が妄想を重視し、AIのハレーションを恐れないのは、文学がその地点からしか出発できないと知っているからだ。
妄想(ハレーション)は終わりではない。文学が、いや人間が、次に向かうための出発点である。

