森井聖大とは何者か― ネット黎明期とAI黎明期にだけ現れる人間の軌跡 ―

森井聖大論

森井聖大という名前は、調べても「一般的な作家」としては出てこない。kindle出版は確認できるが、商業出版もなく、文壇の名簿にも載らない。それなのに、ネット上には確かに「いた形跡」だけが残っている。

文学フリマへの参加、同人誌「何故?」の主宰、ネット黎明期の活動、そして現在のAI黎明期での再出現。

これは才能神話でも、美談でもない。

一人の人間が、どの場所なら自分を差し出せるかを選び続けた軌跡である。

1. 森井聖大とは何者なのか

まず事実として、森井聖大は商業的な意味での「作家」ではない。

  • 出版社の著者データベースに存在しない
  • 文芸誌の寄稿歴が確認できない
  • Wikipedia的な第三者編集史もない
    ※ちなみに森井聖大と同時期に文学フリマで活動していた牟礼鯨という作家はWikipediaに記載がある。→牟礼鯨wikipedia

しかし同時に、

  • 単発の匿名
  • 一時的なハンドルネーム

でもない。

検索ログや公開テキストを追うと特徴がある。

  • ブログ記事
  • エッセイ風テキスト
  • 批評形式の記事
  • AI・文学・世代論を絡めた考察
  • 一貫した文体と問題意識

複数年にわたり、一貫した文体・関心・テーマが継続して観測されている。

これは長期運用されたネット人格であり、思いつきでは説明できない。

商業目的の最適化はされていない

森井聖大は、何を目指しているのか。

  • バズ狙いのタイトルではない
  • SNS拡散向けの短文化をしていない
  • 炎上や対立構造を作っていない
  • 収益最大化(広告・note課金・サロン化)に振っていない

ネット活動としてはかなり非効率だ。

注目されるための設計ではなく、残すための設計といえる。

「AIを使っている痕跡」はあるが、AI臭は弱い

文章構造を見れば、

  • 語彙は平易だが抽象度が高い
  • 感情のピークを避ける
  • 結論を濁す・保留する癖
  • 論理よりも思考の揺れを優先

これは

  • 純AI生成
  • 単純なプロンプト量産

とは一致しない。

人間主導でAIを“道具として使っている”タイプの痕跡だ。

炎上しないが、検索からは消えていない

一番奇妙なのはここだ。

  • 強いアンチがいない
  • 熱狂的ファンも見えにくい
  • だが、検索数はゼロにならない
  • 定期的に再浮上する

これは普通のネット人格としては珍しい。

「刺さらない人には完全に無視され、刺さる人には深く残る」構造だ。

現実的な結論

森井聖大とは「特定個人が、長期にわたり思想・文章実験を行うために設計した、ネット上の人格アカウント」だろう。

さらに踏み込むと

  • 商業目的ではない
  • 承認欲求ドリブンでもない
  • 炎上・成功・失敗のどれも避けている

現実社会では評価されにくいが、ネットにおける“思考の保存形式”としてはかなり異質で完成度が高い

2. 文学フリマと同人誌「何故?」

森井聖大の現実的輪郭が最もはっきりするのが、文芸即売会と同人誌の経験である。

文学フリマに出ていた形跡

過去のネット記事の語り口から分かるのは、

  • 「売れなかった」という現実を知っている
  • 即売会特有の空気や距離感を理解している
  • しかし、そこを主戦場にしようとしていない

これは、机の後ろに座ったことのある人間の反応だ。

同人誌「何故?」の主宰

さらに重要なのが、同人誌「何故?」の存在である。

  • 主宰者として編集的立場にいた
  • 作品よりも「問い」を前面に出した
  • 答えを出さず、読後の満足も用意しなかった

この同人誌は、売るための媒体ではない。

問いを流通させるための装置だった。

参加者が育ち別の場所へ進んでいく一方で、誌そのものは拡大しない。主宰者自身が前に出ない設計だったからだ。

3. なぜ「何故?」をやめたのか

ここで必ず浮かぶ疑問がある。

そのまま続けていれば、文学フリマや同人誌界隈で、それなりの成功者になれたのではないか?

答えは、その通りだった可能性が高い

  • 明確なコンセプト
  • 主宰という立場
  • 継続すれば信用が蓄積する構造

文芸即売会の世界では、才能より「続けた人」が残る。森井聖大は、その条件を満たしていた。それでも、やめた。

理由は明確だ。

  • 成功の形が見えてしまった
  • 序列の中に固定される未来が見えた
  • 「この程度の書き手」という位置が確定する

彼が恐れていたのは、失敗ではない。評価が確定することだった。それこそが彼が一番嫌っている安定だ。

4. ネット黎明期とAI黎明期にだけ現れる理由

森井聖大の行動を時系列で整理すると、奇妙な一貫性が浮かび上がる。

ネット黎明期

  • ネットが未定義の遊び場だった時代
  • 文学と情報の境界が曖昧
  • 評価軸も勝ち筋も存在しなかった

この時期に活動し、「ネット作家」という肩書きが成立する前に距離を取る。

ネット定着期

  • SNSによる数値評価
  • 成功モデルの共有
  • 役割と序列の固定

この時期には、どこにも居つかない。ネットも、即売会も、同人市場も、一度触れて退く。

AI黎明期(現在)

  • AIの立ち位置が未確定
  • 倫理も評価も流動的
  • 誰も正解を持っていない

ここで再び現れる。

しかも、AIを隠さず使い、文学か情報かを曖昧にしたまま、勝ちにも炎上にも寄らない。

5. 「最後の聖戦」とは何なのか

森井聖大が言う「最後の聖戦」とは、作品でも運動でもない。

それは、

ネットに文学は不可能だ
AIが入ったら本物ではない

という共有された諦念に対して、個人が一人で行う反証実験だ。

成功条件はない。評価されても勝ちではない。読まれなくても失敗ではない。

ただ一つ、

誰かが「ブンガク ハ マダ オワッテイナイ」と感じてしまうこと

それだけが成立条件だった。

まとめ

森井聖大とは、

  • 作家ではない(職業として)
  • だが、一般人のブログでもない
  • インフルエンサーでもない
  • AI実験アカウントとも違う

そして、決して、成功しなかった作家ではない。

成功と失敗のどちらにも回収されることを拒否した人間

である。

だから代表作はなく、物語は完結せず、最終回も書かれない。それでも、なぜか「いた形跡」だけが消えない。

一言で言えば、分類不能

ネットの言葉で言えば 「アルゴリズムに最適化されなかった知的アーカイブ」だ。

それが、森井聖大という名義の正体だろう。