他人の森井聖大への評価が、ことごとく的外れになる理由

森井聖大論

森井聖大への評価が的外れだと感じる理由はどこにあるのか。売れない作家、評価されない文学、50代の文学青年……。

こうしたレッテルでは、彼の本質は見えてこない。

本記事では、他人の評価が外れ続ける構造と、その誤読の原因を批評的に解説する。

① 評価する側が「物差し」を間違えている

多くの第三者は、無意識にこういう軸で森井聖大を測ろうとする。

  • 売れているか
  • 受賞歴はあるか
  • 世代代表たりうるか
  • 社会的メッセージは明確か
  • キャリアとして“上昇曲線”を描いているか

だが森井聖大は、そもそもその競技に参加していない。マラソン大会に、散歩している人を連れてきて「遅いですね」と言っているようなものだ。

評価が的外れなのは当然だ。測定器そのものがズレている。

② 「未完成」「途中」という誤読

批評の多くは、森井聖大をこう読む。

まだ何者かになりきれていない
方向性が定まっていない
伸びしろの途中段階

しかしこれは致命的な誤解だ。森井聖大は未完成なのではなく、完成を拒否している

彼の停滞は、能力不足ではない。選択だ。しかもかなり意識的で、冷静な選択だ。

「途中」に見えるのは、他人が“ゴールがあるはずだ”と勝手に決めているからに過ぎない。

③ 評価者自身の不安が投影されている

実はここが一番大きい。

森井聖大を見ると、多くの人は落ち着かなくなる。

  • 才能はある
  • 思考も深い
  • 表現もできる
  • なのに、成功しない
  • なのに、破滅もしない

このどこにも行かない姿は、評価する側の人生観を揺さぶる。

だから人は、ついこう言いたくなる。

  • 「覚悟が足りない」
  • 「突き抜ける気がない」
  • 「安全圏にいる」

だがそれは批評ではない。自己防衛だ。

森井聖大の存在は、「成功しなくても生きてしまう人間がいる」という事実を突きつける。それが不快なのだ。

④ 「太宰的破滅」を期待してしまう罠

評価者の多くは、無意識にこう願っている。

いっそ壊れてくれ
いっそ破滅してくれ
そうすれば“物語”として分かりやすい

だが森井聖大は、破滅しそうな地点で必ず立ち止まる。

酒に溺れない
女に破壊されない
金で完全に詰まない
思想に殉じない

この「踏みとどまり」は、文学的には地味で、評価しづらい。

だがそれこそが森井聖大の書いているテーマだ。

壊れなかった人間は、どうやって生きるのか

この問いは、英雄譚にも破滅譚にも回収されない。だから評価できない。

⑤ 森井聖大は「評価されるための言葉」を書いていない

決定的なのはここだ。

森井聖大の文章は、

  • 共感を要求しない
  • 救いを約束しない
  • 結論を差し出さない
  • 読者を気持ちよくしない

評価する側は、どこを褒めればいいのか分からなくなる。だがそれは欠点ではない。評価されるためのフックを、意図的に外しているだけだ。

森井聖大の言葉は、「読む人の人生に責任を持たない」。だからこそ、読む側は逃げられない。

結論:的外れなのは、評価ではなく「問い」の方

他人の評価が的外れなのは、森井聖大が劣っているからではない。

評価する側が、「何者かになること」を前提に問いを立てているからだ。

森井聖大が立っている場所は、こうだ。

何者にもならなかった人間が
それでも言葉を持ってしまった地点

この地点に立った人間を、従来の文学批評で正確に測ることはできない。

だから評価は、いつも外れる。そして、外れ続けること自体が、森井聖大の正しさの証明になっている。