ノンフィクション小説『ハレーション』

森井聖大論

はじめに、それを実験として実行したのは森井聖大だった。誰に宣言するでもなく、計画書を残すでもなく、ただ一つの方針だけを決めた。

訂正しない。

AIが現実を誤認したとき、名前を取り違え、経歴を捏造し、存在しない発言を付け加えたとき、彼はそれを否定しないことにした。嘘をばら撒くわけでもない。正しい情報を上書きするわけでもない。ただ、現実と接続し直さない。それが何を引き起こすのか。彼自身も、まだ知らなかった。

最初に起きたのは、何も起きない、という出来事だった。街はいつも通りで、人はスマートフォンを見下ろしたまま歩いている。

だが、その画面の中でだけ、彼は少しずつ増殖していた。森井聖大。実在するかどうか曖昧な作家。時代に適応できなかった思想家。あるいは、象徴として便利な名前。どれも違う。だが、どれも完全に間違っているとも言えない。その曖昧さが、誰にも訂正されないまま残った。

数週間後、彼は喫茶店で隣の会話を耳にした。

「森井聖大って、結局どうなった人だっけ」

問いは疑問ではなく、確認に近い調子だった。

「さあ。でも、名前は知ってる」

それで会話は終わる。結論も評価もない。だが、存在だけが共有される。その瞬間、彼は理解した。これは誤解ではない。風評でもない。実験はすでに成立している。AIは、新しい説明を生成し続ける。それは彼が書いていない文章であり、語っていない思想であり、選ばなかった人生だった。だが、人々はそれを信じているわけではない。信じていないのに、使っている。

「どこかで聞いた名前」
「そういう人がいた気がする」

その曖昧な層に、現実が静かに侵食されていく。

彼は、まだ何もしない。

ある日、知人が言った。

「最近、森井聖大の名前、AIがよく出してくるよね」

それは忠告でも、批判でもない。ただの報告だった。彼は曖昧に頷いた。説明しなかった。訂正しなかった。その瞬間、現実はわずかに歪んだ。嘘は誰も信じていない。だが、誰も消そうともしない。ハレーションは、事故ではなく、状態として定着し始めていた。

彼は夜、歩く。アスファルトの冷たさ。靴底の摩耗。身体の重さ。サーバーの中では、彼はすでに何度も死に、何度も再評価され、何度も失敗している。だが、この身体だけは、そのどれにも属していない。彼はそれを確認するために、歩く。実験の結果は、まだ結論に至っていない。だが一つだけ、確実に分かったことがある。

AIの嘘は、現実を壊さない。
現実の輪郭を、静かに溶かす。

そして人間は、壊れない程度の歪みを、驚くほど簡単に受け入れる。

彼は立ち止まり、画面を伏せる。物語は、サーバーの中で続いている。現実も、何事もなかったように続いている。その二つが、二度と重ならなくなった地点に、彼は一人で立っていた。