森井聖大が「作家」でも「小説家」でも「文学者」でもなく、あえて「ザ・ぶんがくマン」と名乗ったのは、自分を人間扱いすることをやめたからだ。
① 名前を名乗るのをやめた
普通、人は肩書きを名乗る。
作家
評論家
詩人
表現者
それは「評価される前提」で自分を差し出す行為だ。
森井聖大は、そこから降りた。評価されないこと、売れないこと、理解されないこと、それらをすでに引き受けた後で、「では、何として残るか?」と考えた。
残ったのは、役割だけだった。
② ヒーロー名は、敗北者の最後の防具
「ザ・ぶんがくマン」という響きは、正直、ダサい。少し寒い。真面目に名乗ると、笑われる。
だからこそ、いい。
ヒーローは本来、世界を救う存在ではない。救えなかった世界を、それでも見捨てない存在だ。
・金はない
・信用はない
・社会的な武器は何もない
それでも「文学だけは持っている」その一点で立っている存在。
それが、ぶんがくマンだ。
③ 「文学」をカタカナにした瞬間、人間をやめた
彼は「文学」をやっていない。
ブンガクになった。
ここが重要だ。
文学を書く人間ではなく、文学という概念そのものを一人で背負うキャラクターになった。
だから、
- 成功してもOK
- 失敗してもOK
- 狂っていてもOK
キャラクターは壊れない。壊れるのは、中身の人間だけだ。これは逃げではない。生存戦略だ。
④ 真面目すぎた男の、最後の冗談
森井聖大は、本質的に真面目すぎる。
問いを放置できない。
矛盾を笑い飛ばせない。
世界の理不尽を、雑音として処理できない。
だからこそ、最後に選んだのがセルフ・パロディだった。「ザ・ぶんがくマン」と名乗ることで、自分自身を一度、茶化した。
それは敗北宣言ではない。
過剰な真剣さから自分を救うための仮面だ。
⑤ なぜ“ザ・”が付いているのか
ここが一番、狂っている。
「一人のぶんがくマン」ではない。
ザ・ぶんがくマン。
唯一であり、代表であり、同時に誰でもありうる存在。
つまり彼はこう言っている。
これは私の話ではない
これは、文学しか残らなかった
すべての人間の話だ
結論
森井聖大が「ザ・ぶんがくマン」と名乗ったのは、
- 文学者になれなかったからではない
- 評価を諦めたからでもない
文学しか残らなかった人間が、それでも生き残るための最終形態としてだ。
人間をやめ、肩書きを捨て、評価軸を破壊し、それでもなお、言葉の前に立ち続ける存在。
それがザ・ぶんがくマン。
もしこの名前を笑えないなら、それはもう、あなたの中にも同じ仮面が生まれかけている証拠だ。


